ナンバ歩きを知っているだろうか。 右足を出したとき右手も前に出てくるという歩き方だ。本当かどうか分からないが、江戸時代までの日本人はみんな、このナンバ歩きをしていたと言う。昔の人は自分で草履を造っていたが、自分でつくった不格好な藁草履は、たいへん脱げやすい。そのため脱げないように自然と摺り足のようになりそうだと想像ができる。また、最低限の力で効率よく農作業をしようと思えば、ナンバの身体の使い方になりそうだとも想像ができる。このナンバ歩きは、効率の良い身体の使い方として、何年も前からスポーツ分野で注目されるようになっている。もともとは、明治に入り富国強兵のため、それまで農業をやっている人達を兵隊にする訓練として、行進などを通してナンバ歩きが廃れていき、今の歩行方法に変えられたということになっている。そして、現在の生活の中でナンバ歩きをする人はおらず、完全に忘れられ、何の違和感を持つこともなく、現在の歩き方で歩かされている。草鞋について調べていると興味深いことを見つけた。昔から靴文化だったヨーロッパと、草鞋の文化だった日本とで、足の形が違うというものだ。草鞋の形に対応させた日本人の足では、親指と人差し指の間に隙間が出来ているが、一方、靴の形に対応させたヨーロッパの人達の足では、その隙間がないというものだ。この話についても真偽は分からない。だけれど、僕らは、そんな単純なことでさえ、操作され身体がデザインされてきたのかもしれないと考えることは、興味深いことだ。当たり前となっている身体のことについても、そうなる為の過程や仕組みを受け入れてきたということがあるのかもしれないからだ。その過程を想像してみたい。
例えば、ウォシュレットは、僕は使わないので分からないが、一度使うと、ウォシュレットなしで生きられなくなると言う人もいるらしい。そういう人は携帯ウォシュレットを持ち歩くという過激な人までいるそうだ。(そんなものがあるかは知らない)ウォシュレットは、生活の中の何でもないデザインで、僕達の身体にとっても社会的な仕組みを受け入れているということではない。だが、実はこのようなことも僕らの身体に影響を与えることができているのではないか。こういうことが、歩き方の練習のように、国単位で意図的に強制的に行われた場合、それは確実に影響が出てくる。
このウォシュレットを、国が強制的に各家庭に1つ設置させたりして、無理矢理に使わせる。最初は嫌がる子どもや、「和式便所でしかせんっ!」と言う頑固も、とにかく全員ウォシュレットを使う。「使わない人は、タイホね~。」と、総理大臣が発言する。その頃には、携帯ウォシュレットの売り上げも伸び、 当然、和式用ウォシュレットというものが発売されたりもする。 各トイレメーカーが球団を持ち、世界経済を動かしている。こう想像をアホのように飛躍してみた世界では、ウォシュレット以外のトイレはトイレではなくなっている可能性がある。ナンバ歩きのように。そして、ウォシュレットが必要不可欠ではなく、”当たり前”というレベルにまでなった時、僕らの身体はどう変化しているのだろうか。1000年くらいウォシュレットを使っていたら、人間の尻が、ウォシュレットの水を受けやすいように、形を変形させている可能性だって考えられる。それとも、肛門のしわの数が現代人よりも減っている可能性も考えられる。よく分からんケツの病気が蔓延して、その病気を防ぐワクチンを毎年ケツへ打ちに行くことも考えられる。尻の穴が乾燥して、どうにかなる人もいるかもしれない。穴だけではなく、尻全体が乾燥する人だっているかもしれない。その場合は、”尻荒れ”とか言って、尻専用の保湿クリームのCMが流れたりもする。
当たり前なことと言う時、通常は社会に対して考えられている。だけど、身体は当たり前のこと過ぎて、そこに組み込まれていない。近年は、ジェンダーや障碍者の差別の観点で、社会を身体に近づけていくという考え方も出てきているが、なぜ僕達がこのような歩き方になっているかや、生活の隅々に共通する仕草や姿勢、病気、なども含めて社会と繋げて考えることが、”当たり前”になっていない社会では、このような良い考えも受入れられていくとは考えにくい。おそらく、家族や夫婦という単位については、社会に翻弄されていることをほぼ全ての人が受け入れることができると思うので、そのことについて身体の観点から考え始めれば、”当たり前”化は可能かもしれない。
僕らの思考や意識のレベルは約10年から100年。身体の変化は1000年から2000年かけて実は作られていた。かもしれない。と、ナンバ歩きはそういうことを教えてくれる。草鞋に対応させ、親指と人差し指の間に隙間をつくったように、僕らの何気ない生活が、何十年か何千年か後に、とんでもない変化や、どうでもいい変化をもたらせる可能性について考えると、あらゆることについての想像力が増していくような気になった。