教育と芸術について、自由。

2016年に上海ビエンナーレに参加した王海川さんについて書いた記事です。→掲載記事

この記事を書いた時、僕は中国に住んでおり、王さんのことをリサーチすることが目的の1つでもありました。もともと王さんのやっていたことは、福岡にあるgallery soapというところで行われたれた展示で見ていて、ワークショップを通して住民とのやりとりを深め、その中から自作に繋げたり、他のイベントが起こったり、他のアーティストなども巻き込んでいく感じが、表現に厳しい中国でどうして可能なのかと興味を持ちました。再開発エリアを舞台にし、住民に対して教育的な介入をしているのだから、僕の目にはたいへん政治的なものに見えたのです。

展示を見た当時、僕は高校で教師をしており、日々学校に訪れる生徒は何を思ってここに通っているのだろうか、なぜ座っているんだろうか、なぜ僕の美術に関する話を聞きに来なければならないのだろうか。などとよく考えていました。王さんの教育的なアプローチは、政治的なものと絡み合うことで教育的になっていると僕は思っているのですが、日本の学校教育ではそのようなことを行うわけにはいきません。その点で王さんの活動についてもう少し知りたいと惹かれたのだと言えます。

教育では、教えることよりも、伝えることの方が大事になる場合があると思います。教えると伝えるはとても近いですが、僕は違うと考えていて、知識は教えることができますが、表現とは何だ?というようなことは、教えたとしても、必ずしも人に伝わるものではありません。教えることでは伝わらないことがあるのだと思うのです。だから、伝えることでしか伝わらないことというのもあるのです。

世界をどう捉えるかが、表現であるならば、 そういったことを表現し伝える人として、美術教師は必要なのだと考えています。こういった観点で教師として何かを伝えようとした場合、僕の場合はたいへん社会的なものになりがちです。世界をどう捉えるかということと、それを捉えてどう表現し態度を示すか、ということなのだから、当然です。そこで法律では偏ったことを教える教師が増えることを防ぐため、宗教や政治と教育を引きはがしています。なので、学校教育では、現状の社会についてのある考えを教師が述べることは基本的には難しいことになっています。

何がなんだか分からないまま教育されている生徒を、社会を指向しない教育によって矯正することで、 無意識的な暴力として教育し続けるしかない教師という仕事は、僕の考える芸術と相反するものでした。

以上、教育とアートについて考えたことを書きました。昨今は教育とアートを結び付け、観光資源の1つのようなものとしてワークショップなどの形で提案されています。それらの多くは図画工作的で、おもしろいことが第1に重要です。もちろんそれも大事だと思いますし、法律にのっとれば、できないことがあるのもしょうがないのかもしれません。しかし、王さんのような取り組みから見えてくるのは、教育とアートが自由な形で結びつく時にこそ、芸術も教育も社会的に有意義なものとして働くということです。

何かと何かが自由な形で結びつくということが、とても難しい状況になっているようです。表現の自由は、何かと結びつける自由だったのではないかと思えるほどです。あるテーマについて抗議をしたり、謝罪をしたり、議論をしたり、様々な取り組みが伝えられていますが、何かと結びつけ拡張し続けることでしか自由は確保できないでしょう。